米軍所沢通信基地を東西に横断する東西連絡道路 (市道3‐1114号線 )がついに開通

米軍所沢通信基地を東西に横断する東西連絡道路 (市道3‐1114号線)が完成し2020年3月28日についに開通しました。

2020年3月24日の日米合同委員会において、東西連絡道路用地の市道としての共同使用が承認されたことにより、返還に先立って通行が可能になりました。今後の返還手続きを経て、最終的に所沢市に返還されます。

実際に見に行ってきたのでご紹介します。

所沢の米軍所沢通信基地について

○フェンスの向こう
市役所や航空公園に程近い並木6丁目。そこに、米軍所沢通信地はあります。基地とは言っても滑走路や航空機の格納庫などはなく約基地とは言っても97haという広大な敷地の大分が草地に覆われています。一見すると広い公園のようにも見えるかもしれませんが、外周をぐるりとフェンスに囲まれていて敷地の中に入ることはできません。
この米軍所沢通信基地は、横田基地の米第5空軍374空輸航空団に所属する送信基地で、受信を担当する大和田通信所(新座市と清瀬市の間に所在)とともに、米軍の航空機や艦船と横田基地を結ぶ通信業務を行っています。
主な施設は、通信用のアンテナや局舎(管理棟)、アンテナの部品などを保管する倉庫があり、基地内では日本人従業員が数人働いています。

引用元:特集『所沢にある基地のこと』基地のこれまでとこれから | マイ広報紙

○基地誕生の理由
1911年(明治44年)、軍用の気球・飛行船の研究を目的に、日本初の飛行場として所沢飛行場が誕生。所沢は、落雷が少なく平らな地形などの条件が飛行場に最適だったのです。その後も、日本発展に大きな役割を果たしてきました。その後も、日本初の航空教育機関ができるなど、所沢飛行場は、日本の航空技術の発展に大きな役割を果たしてきました。
しかし、1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終わると所沢飛行場は米軍のものとなり、所沢基地に。当時の敷地面積は約300haにも及びました。 米軍が駐留するようになると、米兵とのトラブルや風紀上の問題が発生。また、高度成長期になると、人口が増えて住宅需要が高まるなか、都市基盤の整備を求める声も強まりました。
こうした中で、市の中心にある基地の返還を求める機運が高まっていったのです。

引用元:特集『所沢にある基地のこと』基地のこれまでとこれから | マイ広報紙

フェンスで囲まれた97haという広大な土地。ここに基地がなかったら様々なことができるのになといつも考えてしまいます。

あまりに広大すぎるせいか周囲を通ってもほとんど人を見かけることがないのはなぜでしょう?不思議。

基地の中央を東西に結ぶ東西連絡道路

この道が開通したことにより遠回りをしなくても良いという交通の利便性があがりました。

また、重篤患者の防衛医科大学校病院への搬送時間の短縮になり救命率向上にもつながります。

基地の中央を東西に結ぶ全長580メートルの道路。幅員は16メートルで車道が2車線、もちろん歩道もしっかりと整備されています。

およそ97haのうちの0.94haが返還と運営している軍事施設の一部返還は全国でも数少ない事例ですが、これに50年弱かかっているので全面返還となると何年かかるのでしょうか・・・

写真でみる東西連絡道路

3月の雪が残る寒空の下、並木通り団地前から国立リハビリセンター方面へ向けて、開通した東西連絡道路を通ってみました。

なんとなく沖縄と似たような雰囲気を感じました。

所沢 東西連絡道路 1

まっすぐと伸びた道路

所沢 東西連絡道路 2

広大な土地が両サイドに広がる

所沢 東西連絡道路 3

有刺鉄線付きのフェンス

所沢 東西連絡道路 4

敷地内には道路も通っている

所沢 東西連絡道路 5

中央には信号付きの交差点

所沢 東西連絡道路 6

立派な桜が植えられている

所沢 東西連絡道路 7

なんとも不思議な光景に感じる

まとめ

トコブロ
今まで遠回りをしていましたが、この道が開通したことでかなりの時短になり、とても便利になりました。
それにしても横田基地からの謎の土砂移転問題も結局うやむやになってしまいましたがあれは結局どうなったのでしょうかね?


いいね ! をして
最新情報をゲット!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です